明治以後は徳川幕末神道復興の影響を受けて、廃仏棄釈の為に各仏教の勢力減退し、加ふるに明治天皇の神格向上と共に、又形式だにも各旧仏教の繁栄を見ざるに至り、殊に国威の発展と共に益々勢力を削がるる傾きに陥り、時の政府の愚弄する所と成り了り、殊に昭和度の軍国政府の勃興するや全く神威の下に漸く生息するの程度に陥りたり、此を以て古来神社の整理を謀り或は雑乱の社参禁止せし浄土真宗及び日蓮宗の一部に於いては法難を受けたる事顰繁にして此れが防禦法に苦心惨憺たりしなり、吾宗の僧俗又此難を免れず殊に真新気鋭の創価学会も此難を蒙り殆んど全滅の形状に陥れり、但し当時の国家としては神威に憑み過ぎて大敗戦に及びし為に世界の劣等国と成り対外的にも政策の大変動に依り俄然此等神道偏尊の悪風は一掃せられたるも却って個人の自由は勿論にて信仰も又自由公平となりたれば、学会の復興も忽ちに成り意気中天に達し全国到る処に新真なる会員が道場に充満し幸福平和の新天地を拓ければ一時の劣等がまた最勝国と成るべきか、各宗教界の羨望甚だしく、本末の仏法隆盛を極め法益倍増、法滅の末法忽ちに変じて正法広布の浄界と成り広宣流布の大願成就近きに在り、悦ぶべし喜ぶべし、編者申す。
(下の一編は小平芳平氏の記に依る)
一.事件の概要
昭和十九年七月六日、創価教育学会の会長以下二十一名が治安維持法違反及び不敬罪の容疑により、各地の警察署に留置された、この事件の背景とその概要は次の通り。
昭和十二年七月七日、支那事変勃発、十五年七月に成立した第二次近衛内閣、新体制準備委員会を作り、高度国防国家建設を声明、十六年十月十八日、東条英機が内閣を組織し、戦時動員体制を整えつつ同年十二月八日、対米英宣戦布告を行った。
緒戦の陸海軍の大戦果にもかかわらず、アメリカ軍は次第に反攻に転じ、進歩した科学と豊富な物量をもって次第に日本軍を圧倒し始め、開戦後一年も過ぎる頃からあわただしい空気に包まれてきた。創価教育学会は昭和十二年に発会して、当時【昭和十七年頃】は会員が三千人に発展していたが、牧口会長はこのように未曾有の非常時局を救う道は、日蓮正宗の広宣流布以外にないこと、従って今こそ国家諫暁をしなければならないと仰せ出さる。
然るに時局は全く逆の方向に流れつつあり、あらゆる分野において戦時体制化を強要し、当局は宗教も各派を合同して一本化し、国家の大目的に応じて進まなければならないとの方針とるようになった、軍部の権力を背景とする文部省のこの方針は、日蓮宗の各教団は単称日蓮宗(身延)へ合同しなければならないとし、軍人会館を中心に日蓮主義者と称する軍人と、日蓮宗の策謀家達が屢々会合して、この謀略の推進に当たっていた、大石寺の僧俗の中にもこれに動揺を来す一類を生じ、小笠原慈聞師は水魚会の一員となり、策謀の一端を担うに至る、而して「神本仏迹論」を唱え、思想的にも軍閥に迎合して総本山大石寺の清純な教義に濁点を投じた。
大石寺においては僧俗護法会議を開き、身延への合同には断固反対して、十八年四月一日に漸く単独で宗制の認可をとることができた。
十八年二月にはガダルカナル島の敗戦が発表され、愈々戦局は敗色濃厚となり、国民生活には極度の窮乏が襲いつつあった。
牧口会長は今こそ国家諫暁の時であると叫ばれ、総本山の足並みも次第に此に向かって来たが、時日の問題で総本山からは、堀米部長がわざわざ学会本部を来訪なされ、会長及び幹部に国家諫暁は時期尚早であると申し渡されたが、牧口会長は「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である」と主張なされた。
小笠原師はこの策謀に成功すれば、清澄山の住職とか或は大石寺の貫主を約束されているとの噂もあった、十八年四月七日には、東京の常泉寺において、小笠原師の神本仏迹論を議題に、堀米部長が対論することになったが、小笠原師の破約によって実現しなかった、又この頃東京妙光寺にも紛争があった、陰には小笠原の策動があったといわれている。この当時、総本山と創価教育学会を訴えた者があるとの噂もあり、正宗と学会弾圧の気配が次第に濃くなってきた。
十八年六月には、学会の幹部が総本山へ呼ばれ、「伊勢の大麻を焼却する等の国禁に触れぬよう」の注意を時の渡辺部長より忠告を受けた、牧口会長はその場では暫く柔かにお受けした、が心中には次のように考えられていた、当時の軍国主義者は、惟神道と称して、日本は神の国だ、神風が吹く、一億一心となって神に祈れ、等々と呼びかけていた。少しでも逆らう者があると、国賊だ、非国民だといって、特高警察や憲兵のつけねらう所となった、もとより牧口会長は、神札を拝むべきではない、神は民族の祖先であり、報恩感謝の的で合って、信仰祈願すべきではないと、日蓮大聖人、日興上人の御正義を堂々と主張なされていた。
この頃一般日蓮宗に対して、御書の中に神や天皇をないがしろにする不敬の箇所があるとか、お曼荼羅の中に天照大神が小さく書いてあるのはけしからんというような、くだらない警告が発せられ、一部の日蓮宗では御書の一部を削ったりお曼荼羅を改めるというような事件さえあった。
こうして合同問題のもつれと、小笠原一派の叛逆、牧口会長の国家諫暁の強い主張等を背景として、直接には牧口会長の折伏が治安を害するといい、又神宮に対する不敬の態度があるとして、弾圧の準備が進められたから会長の応急策も已に遅し、殊に十八年の四月には豆北の雪山荘を大善生活同志の本部とするの盛挙を為すほどに発展もしていたが、同じ頃から、学会幹部の本間直四郎、北村宇之松が経済違反の容疑で逮捕され、六月には陣野忠夫、有村勝次の両氏が学会活動の行き過ぎ(罰論)で逮捕され、七月六日には伊豆に御旅行中の牧口会長を始め、戸田理事長等が逮捕された。
それ以後幹部二十一名が各地で逮捕され、治安維持法違反、不敬罪との罪で獄中に責められた、牧口会長は逮捕されて一年半、十九年十一月に老衰と栄養失調のため七十四才で獄中に亡くなられた。
一方総本山は漸く弾圧を免れたが、戦時体制に捲き込まれ、十九年十二月からは、兵隊の宿舎に客殿を提供せざるえなくなり、大宮浅間神社の神籬を寸時書院に祀るようなこともあった、その為か、二十年六月十七日兵隊の火の不始末から失火し、対面所、大奥、書院、客殿、六壺等の中心を焼き、第六十二世日恭猊下は責を一身に負われてか、火中に無念の御遷化遊ばされる不祥事を惹起した。
戦時の激化とともに、留置場生活も異常の食糧難や不潔に陥り、残された留守家族も、企業整備、疎開、インフレ、統制配給、応召、勤労動員等々とあわたゞしい動きの中に益々生活難に陥り、或は世の白眼視に耐えかねて退転する者が多かった。
最後に戸田理事長は二十年七月三日に保釈され、直ちに学会の再建にとりかかられた、裁判の結果、懲役の判決を受けた者もあったが、敗戦とともに治安維持法が廃止され、神社に対する不敬罪は大赦により、大多数の者は免訴となった。
富士宗学要集(創価学会) 第九巻 428~432㌻
富士宗学要集(創価学会) 第九巻 428~432㌻
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