「劉備玄徳は優柔不断であるから、曹操に敗れるような憂き目にあるのもやむをえなかった。」
「諸葛孔明も、又玄徳も理想主義であった。」
「張飛は粗雑で軽薄すぎるから、身を亡ぼすようなことになってしまった。ただし、彼は生命力には自信があった。」
「関羽は、重厚な人柄だ。時に損をするような、真面目な性格であるが、彼の偉さは義を立てぬいて、しかも自分を少しでも偉いと思っていないところにあると思う」
「関羽は、信義の人であった。節操を尚び、義を重んじて生きた。」
玄徳・関羽・張飛の三人の間に結ばれた有名な「桃園の義」について、戸田先生は「より大事なことは、三人が共によくたがいの短所を知って、補い合っていけたから、、団結できたのだ。」と話されていた。
我々もたがいに同志である。兄弟以上に深いつながりがあるかもしれない。その意味から、相手の短所を追求するという行き方でなく、たがいに補いあう麗しい人間関係であっていただきたい。また「したがって、まず三人の性格上の違いをよく見ていかなければならない」ともいわれ、人物の見方というものを教えてくださった。『三国志』をただ物語としておもしろく読むだけではなく、人生と人物観に通ずる原理を読みとっていくことが大切である。
人の性格というのは終生、変わらないものである。その相手の性格を知り、どう守り、生かしていくか。それが、多くの人をリードする指導者の根本要件である。
さらに、「どれが短所か、また長所は何かを知っていくことがたがいに相手の人物を理解する基本となるものだ。結局三人が結束したのは、義を結んだときに、おたがいを好きになったからだろう」といわれた。
広布という大目的のためには、たがいに好きになるという強い結束が大事である。そうした同志としてのつながりほど、尊く強いものはない。
徐州の没落以来、数年ぶりに、玄徳・関羽・張飛を中心として君臣一同が一城に住みうる日を迎えた。その日を迎えて『三国志』には次のように述べられている。
「顧みればーそれはすべて忍苦の賜だった。分散してふたたび結ばんとする結束の力だった。その結束と忍苦の二つをよく成さしめたものは、玄徳を中心とする信義、それであった」と。
何事を成すにも、それなりの「忍苦」は当然あろう。また立場や場所は異なってもいざという時は共に集い、ともに進んで行こうとの強き同志愛による「結束」が必要である。まして広宣流布という大目的に進む諸君は、この事をけっして忘れてはならない。
現実は足の引っ張りあい、いがみあい、ねたみ、反目の渦巻く醜い社会である。まさに三悪道、四悪趣、六道輪廻の世界である。そのなかにあって、本当に美しく、壊れない人間社会の建設は仏法による以外にないのである。
「人柄」と「人格」の優れた人が、誰からも信頼され、頼られる存在となるものだ。また「判断の正しさ」「強さ」「戦いの正確さ」というものはリーダーに必要な資質である。
それほど目立たない人であっても、立派な人はいるものだ。地位や立場、外見などで、人物を評価することはできない。むしろ黙々と苦労している人に、人材は多くいるということを若きリーダーの皆さんは忘れてはならない。
いかに年をとっても、自らの信条信念を、青年時代から変わらず貫いていく。そこに私は趙雲の偉さを感ずるし、広布と信心における私どもの生き方も、かくありたいと願うものである。
時代はますます”エゴの時代”になってきている。民衆を心から大切にする指導者は皆無に等しいのではなかろうか。仏法者はいかなる苦難、いかなる困難があっても、絶対に民衆を守らねばならない。仏法は民衆のためにあるからだ。
皆さまも、自分を認めてくれない環境を嘆くようなことがあるかもしれない。しかし、青年時代は修行の時代である。今後、四十代五十代になってからの社会と広宣流布の本舞台を胸に秘め、淡々として時を待つ、ふところの深い境涯も必要であると思う。屈するは伸びんがためであり、現在の本分に全力を尽くしつつ、天の時を待つという行き方もあることを知ってほしい。
次元は異なるが、大聖人も、広宣流布は、「時を待つ可きのみ」(御書1022)と仰せになっておられる。
「返す返す穏便にして、あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をも、ぐせずよき馬にものらず、のこぎりかなずち手にもちこしにつけて、つねにえめるすがたにておわすべし」(御書1107)
つまり、かえすがえすも今は穏やかな態度をして、造宮の工事をはずされたことをあだみ、うらむような、ようすもなく、また身なりも目立たないようにし、召使いなども連れず、良い馬にも乗らないで(大工らしく)のこぎり、かなづちを手に持ち、腰につけて、常ににこやかな姿をしていなさい、と仰せになっているのである。皆さまも、この御指導を聡明にわが身にあてて銘記していただきたい。
長い人生の途上には、仕事のうえでも、組織等のうえでも、自分の実力を発揮できる場を与えられていないと悩むことがあるに違いない。しかし、本当に立派な信心と人格の人物であれば、やがて諸天がその人に存分の活躍の場を与えないはずがない。
”天の時”が来れば、不運を味わった分の何倍もの重要な立場で必ず大活躍していけるのである。
ゆえに、一時の事で、くさったりしてはならない。まして信心を後退させるようなことは断じてあってはならない。
人生の一つの敗北にあたって、くよくよと悲嘆するばかりでは、人生そのものの敗北にさえ陥ってしまう、むしろ敗戦は、次の勝利へのバネであると一念を定め、自ずから力を蓄えていくべきである。
関羽はさらに「人間にも幾たびか泥魚(泥の中の魚)の穏忍にならうべき時期があると思うのでございまする」と玄徳を励ましている。
”泥魚と人生”-これも味わうべき言葉であろうと思う。若き諸君にここから何かをくみ取っていただければ幸いである。
母親の正しき一念の所作、一念の力が、どれほど子供に通じているかを知っているつもりである。
劉備は、大変に親孝行な青年であった。父はすでにいない。母一人である。しかし、こうした恵まれない家庭から優れた人物が出るというのも今も昔も変わりがないようだ。
孔明が最後の戦線である中原へ進出する大事を前に、常に緻密であったことを見逃してはならない。
現実の事にあたって大ざっぱな考えでは、けっして勝てるものではない。緻密でなくては、現実に打ち勝つことは絶対にできない。それを前提にしたうえで、また広々とした未来を志向していかねばならない。
孔明は、常に用意周到に事を進め、その作戦は緻密を極めていた。玄徳亡き後、五回の外征をおさめ、三年は内政の拡充に力を注ごうとしたのも、その表れであろう。
孔明は内政の拡充を進めるにあたって「三年の間、彼は百姓を憐み宥わった。百姓は天地が父母のように視た」
この姿勢は会員を大事にするという草創以来の学会精神に相通ずるものがあると言ってよい。
新しく呉の国の主となった孫権に向かって、参謀の役をつとめた周瑜は「いつの時代になろうが必ず人の中には人がいるものです。ただそれを見出す人のほうがいません。」と語る。
また孔明がつねづね劉備に向かって言う言葉に”すべて人にあり”がある。”望蜀の巻”には「人です。すべては人にあります。領地を拡大されるごとに、さらにそれを要としましょう」と
同じように、広布の活動と前進にあっても、人材が何より大切である。自分より立派な人材をどれだけ育てあげるかが肝要である。そこに指導者としての正しい姿勢があり、成長と前進もあることを銘記していただきたい。
関羽、張飛が亡くなり、ひとり心労を尽くす諸葛孔明の心中を”五丈原の巻”では次のように記している。
「口には出さないが、孔明の胸裡にある一点の寂寥というのは実にそれであった。彼には、科学的な創造力も尽きざる作戦構想もあった。それを以て必勝の信ともしていたのである。けれど唯、蜀陣営の人材の欠乏だけは、いかんともこれ補うことができなかった」
戸田先生は、孔明に対する人物観として「人間おのおの長所があれば短所もあるものだ。さすがの孔明としてもいかんともしがたいところであろう。蜀の国に人材が集まらなかったのは、あまりにも孔明の才が長け、几帳面すぎたからだ」と評しておられた。
才があるからといって、すべてを一人で行ってしまっては、人を育てることはできない。皆の意見をよく聞き、そのうえで、結論を出していくことが大切である。また適材適所で人を生かしながら、それぞれ責任を持たせ、一人ひとりに自信を持たせていかなければ、人は育たない。
さらに戸田先生は孔明について「しかも、彼には、人材を一生懸命になって探す余裕もなかった。そこに後継者が育たなかった原因があると思う。しかし、ともあれ孔明死後、蜀は三十年間も保ちえたのを見れば、まったく人材がいなかったわけでもない」 と語っておられた言葉を忘れることができない。
劉禅は劉備が四十代後半の時に生まれた子であり、劉備死去の時は弱冠十七歳であった。大事にされ過ぎた点があったのかもしれない
先の川本氏も「諸葛亮はじめ、よりすぐった人たちの集団の中で掌中の珠のように育てられた御曹子が、バカの代名詞のように大人になってしまうとは.........世の中は、思うようにならないものである」と述べられている。
戸田先生も「両親が働き盛りの時に生まれた子供は優秀に育つ場合が多い」といった意味のことをおっしゃっていた。
諸君もさまざまな苦労が多いことと思うが、「艱難に勝る教育はない」との心意気で、これからの人生に取り組んでいっていただきたい。それがすべて自信を磨き、自身の徳になり、また子供への守りとなるからである。
どんな英傑でも、年齢や境遇の推移とともに人間がもつ平凡な弱点に陥りやすい。晩年期にさしかかった曹操の姿を通して、こうした教訓を読みとることができる。
「むかし青年時代は、まだ宮門の一警手にすぎなかった頃の曹操は胸いっぱいの志は燃えていても地位は低く、身は貧しく、たまたま同輩の者が上官に媚びたり甘言につとめて、立身を計るのを見ると、(何たるさもしい男だろう)と、その心事を憐み、また部下の甘言をうけて、人の媚びを喜ぶ上官にはなおさら侮蔑を感じ、その愚かを笑い、その弊に唾棄したものであった。実にかつての曹操は、そういう颯爽たる気概を持った青年だった」とある。諸君もまた、そうした理想に燃えている一人ひとりであろうと思う。しかし、悲しいことに五十代後半にさしかかった曹操は、かつての英傑の面影を失っていく。
「ところが、近年の彼はどうだろう。赤壁の役の前、観月の船上でも、うたた自己の老齢をかぞえていたが、老来まったく青春時代の逆境には嘯く姿はなく、ともすれば、耳に甘い側近の言葉に動く傾向がある。彼もいつか、昔は侮蔑し、唾棄し、またその愚かを笑った上官の地位になっていた」のである。
われわれも、利己の心にとらわれ、広布の大理想への情熱の炎を消してしまえば、こうした姿に陥ってしまうであろう。怖いことである。
戸田先生は、晩年の曹操について、次のように言われた。
「曹操は大成するにしたがって慢心を生じてきた。自分を諌めたり、反対意見を出すものを遠ざけたり、殺したりするようになってしまった」と。
またこのことに関連して「若い時代に指導者の立場になったら、老人の意見を大事にしなければならぬ。逆に老人になってから指導者になるときは、必ず若い人の意見を聞いていかねばならない」と指導された。
まったく私もそう思っている。
(昭和61年11月2日 東京会館)